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- 文学者から見た紀北町
これは国文学者/民俗学者であり、また歌人としても名を馳せた折口信夫が現在の海山区の山を歩いたときに詠んだ歌です。 紀北町は昔から文学者/歌人が愛した土地の一つで、町内の様々な場所に彼らが残した文学や歌を記念した碑があります。彼らの足跡を辿り、 文学にふけることができるのも紀北町の旅のひとつの楽しみです。
作家名
折口信夫
生存期間
1887(明治20)年2月11日~1953(昭和28)年9月3日
出身地
大阪府大阪市
歌碑所在地
海山郷土資料館 (三重県北牟婁郡紀北町海山区中里96)
電話番号
0597-36-1948
折口信夫(おりくちしのぶ)は、民俗学者、国文学者です。 昭和28年に63歳で亡くなりました。釈迢空(しゃくちょうくう)と号した詩人でもあり、また、同性愛者としても知られております。 柳田國男の柳田学のように、折口信夫の学問は折口学と呼ばれています。大正元年、大阪市で中学校教師をしていた25歳の折口信夫は、 教え子の中学生2名を連れて伊勢から田辺へ旅する途中、8月16日引本から船津に至り往古川を遡りましたが、花抜峠付近で迷い2日間絶食して彷徨いました。 この旅で作った短歌が歌集『海やまのあいだ』に掲載されました。平成2年に建立された海山郷土資料館の歌碑にも3首が記されています。 「山めぐり二日人見ずあるくまの 蟻の穴にも見入りつつなく」 「波ゆたにあそべり牟婁の磯にきて たゆたふ命しばしやすらふ」 「北牟婁の奥の小村にわく水の かなしき記憶来たる午後かな」

梶井基次郎(かじいもとじろう)は、小説家で代表作に『檸檬』『城のある町にて』などがあります。31歳で肺結核のため亡くなりました。 文学碑は、国道42号沿いの上里小学校入口近くにあります。上里小学校で姉の宮田富士先生が教員をしていました。期間は、大正7年7月から大正11年3月までです。 梶井基次郎も大正9年に姉を訪ねてきたそうです。 文学碑は、昭和53年5月に上里小学校創立百周年記念碑として建立されました。文学碑には、『城のある町にて』の一節が記されています。 『城のある町にて』の舞台は松阪市ですが、文中、北牟婁という地名が登場します。滞在中の情景を思い浮かべながら書いたのでしょう。 現地を訪れる場合は、学校施設内のため迷惑にならないようご注意ください。

作家名
梶井基次郎
生存期間
1901(明治34)年2月17日~1932(昭和7)年3月24日
出身地
大阪府大阪市
歌碑所在地
紀北町立上里小学校
(三重県北牟婁郡紀北町海山区上里801番地)
作家名
江戸川乱歩
生存期間
1894(明治27)年10月21日~ 1965(昭和40)年7月28日
出身地
三重県名張市
関連する場所
大島
江戸川乱歩(えどがわらんぽ)は、推理小説を書く小説家です。作家名はアメリカの小説家エドガー・アラン・ポーからもじっています。 本名は平井太郎です。代表作に『怪人二十面相』『幻影城』『孤島の鬼』などがあります。『大金塊』という作品中、 紀北町の大島が岩屋島や鬼ガ島という名で登場します。文中では、「昔鬼が住んでいて、その鬼の魂が島に残っているとされる島」と設定されています。 実際の大島は、オオタニワタリなど貴重な植物があり、周辺には町の鳥カンムリウミスズメも飛来する所です。『大金塊』は、暗号を解けば、大金塊が発見できるという物語です。 「週刊少年マガジン」の前身「少年倶楽部」に連載されました。 『大金塊』の文中に次の記述が見られます。 「汽車の中でねむって、そのあくる日の昼ごろには、三重県の南のはしの長島町についていました。それは海岸の漁師まちでした。 町じゅうに、磯くさいにおいがただよって、近くの海岸から、ドドンドドンという波の音が聞こえていました。」

田山花袋(たやまかたい)は小説家で、本名は田山録弥(たやまろくや)です。代表作に『蒲団』や『田舎教師』があります。 田山家は代々秋元藩士であり、父は警視庁の巡査でしたが、西南戦争で戦死しました。 田山花袋は、明治31年27歳の時に紀伊半島を旅し、その際の紀行文が、『南船北馬 北紀伊の海岸』です。 長島では嵐屋に宿泊しました。嵐屋は、江戸時代から続いた旅館で平成16年に廃業し、平成17年10月に所有者の西山茂氏から紀伊長島町に寄贈されました。 老朽化のため平成22年に解体撤去され、広場が公園化されました。嵐屋は南船北馬の文中にも登場し、 「その夜は町にても最も古く最も親切なりといへる嵐屋といえる大なる一旅館にやどりたる」と記述されています。

作家名
田山花袋
生存期間
1872(明治4)年1月22日~ 1930(昭和5)年5月13日
出身地
群馬県館林市
歌碑所在地
嵐屋記念・花袋の広場 (三重県北牟婁郡紀北町紀伊長島区長島937)
作家名
佐藤春夫
生存期間
1892(明治25)年4月9日~1964(昭和39)年5月6日
出身地
和歌山県新宮市
関連のある場所
赤羽川(三重県北牟婁郡紀北町紀伊長島区)
佐藤春夫(さとうはるお)は、新宮市出身の作家で新宮市名誉市民でもあります。 父の佐藤豊太郎は医師で、佐藤家は代々医業に携わってきました。慶応義塾大学文学部で教授の永井荷風に学びますが、中退しました。 1911年に同郷の医師、大石誠之助が大逆事件の被告として死刑となった際には、詩「患者の死」を発表し折口信夫に評価されています。 小説家の谷崎潤一郎と交流があり、「細君譲渡事件」という世間の話題となった事件があります。谷崎潤一郎は千代夫人と結婚しておりましたが、 妹のせい子に惹かれてしまいます。佐藤春夫は千代に同情し、仲良くなり谷崎潤一郎から譲渡してもらいました。 この頃の心情を、詩「秋刀魚の歌」に記しています。昭和35年、文化勲章を受賞しました。 また、『山妖海異』という作品で、熊野地方一帯の民話を題材としており、紀伊長島の「カンカラコボシ」というカッパにまつわる話が紹介されています。
山口誓子(やまぐちせいし)は、本名を山口新比古(やまぐちちかひこ)という男性です。 東京帝国大学法学部で東大俳句会に加わり、高浜虚子から指導を受けました。 卒業後、大阪住友合資会社に入社したのですが、胸部疾患のため昭和17年に退職して文筆活動に専念することとなりました。 「ホトトギス」へ投句し、水原秋桜子や高野素十、阿波野青畝とともに「四S」の一人として活躍しました。 その後、「馬酔木」に参加し新興俳句運動の中心的存在となり、昭和62年芸術院賞受賞、昭和63年神戸大学名誉博士号授与、平成4年には文化功労者として顕彰されました。 長島浦は俳句の盛んな地です。昭和20年には、東京の出版社に勤めていた長井愛爾が疎開して、新町で貸本屋を開業しました。 そこに知識人が集まるようになり、漁火吟社という俳句結社がつくられました。 その漁火吟社第三百回記念句会の講師として山口誓子が来て以来、合計4度来町しました。 そうしたことから、城ノ浜海岸のホテル季の座玄関前に「生きてまた松の花粉に身は塗る」と刻まれた句碑が建立されています。

作家名
山口誓子
生存期間
1901(明治34)年11月3日~
1994(平成6)年3月26日
出身地
京都府京都市
歌碑所在地
ホテル季の座
(三重県北牟婁郡紀北町紀伊長島区東長島3043-4)
電話番号
0597-46-2111
作家名
鈴木牧之
生存期間
1770年2月22日
(明和7年1月27日)~
1842年6月23日
(天保13年5月15日)
出身地
新潟県南魚沼市
関連のある場所
熊野古道
鈴木牧之(すずきぼくし)は、江戸時代後期の商人であり、随筆家でもあります。本名は鈴木儀三治(すずきぎそうじ)です。 家業は小千谷縮の仲買と質屋を営む豪商で、屋号を鈴木屋といいます。寛政8(1796)年に伊勢参宮ののち熊野を訪れ、 さらに西国三十三カ所巡りをして『西遊記神都詣西国巡礼』を書きました。荷坂峠の沖見平には、鈴木牧之が詠んだ二句が掲げられています。 “長嶋や世を遁るなら此のあたり” “嶋山や霞もこめず千々の景”また、始神峠にも二句が掲げられています。 “大洋に潮の花や朝日の出” “待ちかねて鶯啼くか日の出しほ” そして、天保8(1837)年に北越雪譜(ほくえつせっぷ)を出版、越後魚沼の雪国の生活を書き、当時のベストセラーとなりました。

三浦樗良(みうらちょら)は、本名を三浦元克(みうらもとかつ)という俳人です。 出身地について、伊勢市説、鳥羽市説、紀北町紀伊長島区の地蔵町説があります。紀伊長島の百雄に教えをこい、 俳諧の道に進み、江戸や京都などを転々とし墓は伊勢市にあります。32歳のときには、熊野市新鹿を訪れ、そのまま滞在して最初の句集『白頭烏集』を編纂しました。 新鹿には英文句碑が建立されています。紀北町では、昭和33年、赤羽川河口に漁火吟社の人々の尽力により樗良名月句碑が建立されました。 「嵐ふく草の中より今日の月」という与謝蕪村が激賞した句が刻まれています。

作家名
三浦樗良
生存期間
1729(享保14)年~
1780年12月11日
(安永9年11月16日)
出身地
伊勢市説、鳥羽市説、紀北町説あり
歌碑所在地
赤羽川河口
(三重県北牟婁郡紀北町紀伊長島区東長島(中州))
小倉 肇(おぐら はじむ)
昭和10年生まれ、紀北町紀伊長島区在住。 みえ熊野学研究会運営委員長、紀北民俗研究会会長、日本児童文学者協会会員、元紀北町教育長。 著書『松尾芭蕉』『絵本・やくろうの犬』『熊野古道伊勢路紀行』、他。 平成21年三重県民功労賞受賞。
Q:本日はご多忙の中お時間を作っていただきありがとうございました。早速ですが、 「紀北町(熊野地方)と文学」ということをテーマにいくつか質問させていただきたいと思います。まず一つ目の質問です。 今回の文学者特集を作った時の印象として、昔からこの地域は多くの文学者を惹き付けて来た土地だったように思います。 文学者を惹き付ける魅力がこの地域には多くあるのでしょうか。
小倉:まずはじめにこの熊野地方というのは地政学的に言うと「日本で一番不便な場所」です。直線的に距離が近い京都に都があった時代でさえ、 紀伊山脈と紀淡海峡が都からの往来を阻み人々の交流は少なかったです。そういった地政学上の理由から「熊野信仰」と言われる独特の信仰が生まれたわけです。 そしてこの特異性が中心からの対比としてのこの地域の特徴を作ったのです。 文学史の視点から見ても特徴の多い地域で、日本書紀では熊野市の花の巌に日本で最初の女性であるイザナミノミコトが眠っているとされ、 「死の国」「鬼の国」といった書かれ方がされています。この、非日常性が多くの文学者をひきつけてきたのでしょう。
Q:「中心からの対比として」や、「非日常性」という言葉がありましたが、 この地域を書いた多くの文学者や歌人がこの地域の出身者ではなく、 旅を通してこの地域を書いたということにも深く関係があるのでしょうか。
小倉:そうですね。旅の目的の一つが日常から離れた時間を過ごすということになると思いますが、 この地域の非日常性はまさに旅の目的に合致しています。 同じく地政学上不便な場所である四国で四国八十八ヵ所巡りが盛んに行われたように、 この地域で熊野三十三ヵ所巡りや熊野三山への巡礼が盛んに行われたのもこの地域の非日常性に拠るものが多いのでしょう。
Q:最後に、この地域を取り扱ったもので、小倉さんの印象に強く残る作品を教えてください。
小倉:この地方は熊野灘を抱く開放的な地域でもあり、そのような開放的な一面を強く抱かせてくれるのが、 佐藤春夫の抒情新集です。一方、熊野の厳しい環境と閉鎖性を良くあらわすのは中上健次の作品です。地の果て至上の時や、鳳仙花などが印象深いですね。
Q:ありがとうございました!





